月をさす指①
ブログタイトルの、「月をさす指」は、
仏陀の教えである「指月の法(しげつのほう)」を忘れないようにつけた。
わたしが月を指したときは、月を見なさい。
指を見るんじゃないよとの教え。
指は言葉で、月は悟り。
言葉そのものに悟りが宿っているわけではない。
言葉は悟りの方向を指し示しているだけだって意味合いらしい。
これ、言葉だけじゃないと思うんだ。
本来の自分と一致して生きるのは、存外むずかしい。
身近な人たちやマスコミ、ネット情報など
自分以外の思念がいつの間にか身体に侵入してきて
わたしの頭と身体を乗っ取ってくるからだ。
本来の自分って、何か行動を起こして掴むものじゃない。
余計な思考をすべて捨てたときに、
ぶわっと、頭の中以外の次元が立ち上がってくるのがそれだ。
日常が夢の中で、
思考が静まった時にだけ、正気にかえる。
自分と一致すると、無条件に満たされる。
何かを手に入れたとか、問題が解決したとか
そういった外側の事とはまったく関係がない。
○〇を達成したから満たされたってのとは全然違う。
ただ、「満たされた」が単体で存在する。
何なら、「わたしが満たされた」の「わたし」もない。
ただ、「満たされた」だけが存在している。
これこそがわたしの唯一求めるものだ。
外側の条件に全く影響されない無条件の充足。
無条件の充足を感じるために必要な条件は一切ない。
だって無条件だから。
本当なら、いますぐここで感じることができる。
できるはずなのだが、わたしの身体は余分なものをキャッチし過ぎて
好きなときに感じることができない。
なんたる矛盾。
究極的には無条件に感じることができる充足だけど、
人間の身体ってやつは、どうしてもバグを元に構成されているので
2つの調整が必要だ。
ひとつは、
身体に入り込んだ無駄な思念を捨てること。
では、どれが無駄な思念だろう。
言ってしまえば全部だ。
以前参加したノンデュアリティスピーカーのミーティングで、
「思考の99%は無駄である。
そして残りの1%も無駄である」
という名言を聞いた(誰の言葉かは忘れた)。
だから、とりあえず全部の思考をいったんわきに置いておく。
だって、
頭の中身を全部捨てましょう!
はい!捨てました!
なんてできないんだもの。
信念、思い込み、バイアス、あれこれあれこれ。
全部まとめていらない思考ということで、とりあえずわきに置く。
邪魔がなくなったところで2つ目。
長くなったので、続きは次回。