状況ではなく心の方に注目する①【書籍「キレる私をやめたい」田房永子】

田房永子さんのコミックエッセイが好きで何冊かよんでいるんだけど、

「キレる私をやめたい」という本の中で、こんなシーンがあった。

 

--- 以下、要約 ---

 

普段、人は「状況」同士で話をしている。

 

例えばBさんには嫌な上司がいて悩んでいる。

そこでAさんに「仕事、辞めようかな」と相談してみた。

 

するとAさんは、

「今から再就職は大変だよ」

とか、

「いいんじゃない。好きなことやった方がいいよ」

などの返答をする。

 

ここでは会社を辞めることに賛成か反対かは問題じゃない。

Aさんの返答は、全部状況に対することだ。

 

 

Bさんは嫌な上司に悩んでいるから、会社を辞めたい。

Bさんもまた、状況に対応しようとしている。

 

でも、Bさんの「状況」ではなく「心」に注目してみると、

もしかしたら上司の期待に応えられない自分が嫌なのかもしれないし、

全く別の人への怒りを上司に投影しているのかもしれない。

 

それは、状況だけ見てもわからないけれど、

Bさんの「心」に注目してあげるとわかることがある。

この相手の「心」に注目することがセラピーだ。

 

「心」に注目するには、

身体の状態や気持ちを自分に問いかけ「今」を味わう。

 

嫌な上司で悩んでいるBさんが

実際何に怒っているのかの原因は

わかってもわからなくてもどっちでもいい。

 

人間は誰かに「心」の部分に注目してもらったり、

自分で「心」の部分に注目するだけで癒されるから。

 

 

著者は、些細なことで夫にキレてしまうことに悩んでいた。

このゲシュタルトセラピーの勉強会に参加して、

「ずっとボロボロに傷ついている自分を自分で無視していた」

ことに気が付いた。

 

そしてまわりの人に悩みを相談したときも、

「彼氏いるだけいいじゃん」

「そんな悩みゼイタクだよ」

「相手も大変だったんじゃないの?」

と、「状況」に対する返答しかもらえなかった。

 

だから夫から「部屋を片付けてよ」と「状況」へアクセスされると

「心」がパニックを起こしてキレてしまったんだとわかった。

 

それが、ゲシュタルトセラピーで「心」にアクセスしてもらうと

「夫へのキレはお母さんへの怒りだったのかも」という気づきと

「心」に注目されたことによる癒しを得た。

 

「注目されるだけでこんなに満たされるんだ。

だけど日常生活では「状況」にしかアクセスされない。

でも、自分で『心』に注目できれば

いつでも自分で満たすことができる気がする」

 

 

--- ここまで ---

 

もう、このシーン大好き。

「あれはやめましょう」「こうすれば解決!」的な

スピリチュアル情報や自己啓発本では得られない納得感!

 

この本はまるごと全部大好きなんだけど、

このエピソード次に書いてあるお話もとっても興味深かった。

 

「心」に注目することの効果を劇的感じた著者は、

まだ幼い自分の子どもにも試してみることにしたというシーン。

 

 

次回へ続く

(毎度長くなるなあ)

 

月をさす指②

前回の続き。

 

究極的には無条件に感じることができる充足だけど、

人間の身体ってやつは、どうしてもバグを元に構成されているので

2つの調整が必要だ。

 

一つ目は前回書いたとおり。

 

二つ目は

そっちの方向を向く

 

とうことだ。

 

 

そっちってどっち!!

 

 

ってくらい説明になっていなくてびっくりした。

 

そっちというのは、無条件の充足の方向なんだけど、

どうやって向くのかというと、

 

無条件の充足があるな

イメージするというか、意識を向けるというか、

漠然としちゃうけど、そんな感じ。

 

この二つをやったからといって、

心から不安がなくならないこともある。

不条理な現実が現れることもある。

 

すると身体は疑う。

「本当に無条件の充足なんてあるのか?」

「あるとしても、自分のやり方はあっているのか?」

「何も感じないから、何もできていないのではないか?」

 

でも、何を感じようと、何が起きようと

無条件の充足には何の影響も及ぼさないのだ。

 

 

身体というのは、世界の一部分しか感知することができない。

(一部しか感知できないから時間があるように感じる)

 

そして、変なバイアスをかけて世界を嫌な風に編集することも多い。

それは身体の仕組み上、避けられないバグだ。

 

バグった身体がどんなに世界を歪めて見たところで、

何の問題があるだろうか。

 

身体がどれだけ世界を歪めて見ようと、

無条件の充足は、ただひたすら無条件の充足として存在している。

だから、何を感じようと、何を体験しようと関係ない。

わたしは無条件の充足に方向を合わせるだけだ。

 

 

身体がバグるのはもうしょうがない。

永遠にバグらない身体を欲しがるのは、

永遠にお風呂に入らずにすむ身体を欲しがるのと同じことかも。

(一生お風呂に入らなくていい身体、ちょっと欲しいけど)

 

 

しょうがないから、バグる身体を抱えながらでも

この手順だけは忘れないようにしよう。

 

 

身体に入り込んだ無駄な思念を捨てる

無条件の充足があるなああああと浸る

本来の自分が立ち現れる

無条件の充足のまま生きていける

 

 

 

身体に入り込んだ無駄な思念を捨てるためには

いろんな方法がある。

 

わたしはエビデンスの有無を重視しないので、

科学的根拠がなくても、

信用できない人の発言でも、

少数派にしか当てはまらない事象でも、

自分が「あ、コレだ」と思ったら採用する。

まあ、部分的に採用ってのが多いけど。

 

 

なぜかはわからないけれど、

今の自分に必要な情報は体感的にわかる。

 

身体の中にあるモヤが一枚すっと

抜かれたような感覚があるからだ。

 

わたしはオタク気質なので、

気になる情報があればよく調べて、深く考察する。

その作業が楽しすぎて、つい月をさす指の方を

追いかけてしまうことも多々ある。

 

情報は、あくまでも手段。指。

目的は、無条件の充足。本来の自分との一致。月。

 

今の自分に必要な情報は、どんどん変わっていく。

新しい手段が必要なこともあれば、

以前試して今はやっていない方法が再びマッチすることもある。

 

何がいつ役に立つかわからないから、

こうして備忘録をつけることにした。

 

自分のために始めたブログだけど、

もし、誰かひとりだけでも

月の方向を見るきっかけをつかんでくれたら

激しく狂喜乱舞してしまう自信がある。

 

わたしも、あなたも、

無条件の充足に浸る時間が

どんどん増えていきますように。

 

 

月をさす指①

ブログタイトルの、「月をさす指」は、

仏陀の教えである「指月の法(しげつのほう)」を忘れないようにつけた。

 

わたしが月を指したときは、月を見なさい。

指を見るんじゃないよとの教え。

 

指は言葉で、月は悟り。

言葉そのものに悟りが宿っているわけではない。

言葉は悟りの方向を指し示しているだけだって意味合いらしい。

 

これ、言葉だけじゃないと思うんだ。

本来の自分と一致して生きるのは、存外むずかしい。

 

身近な人たちやマスコミ、ネット情報など

自分以外の思念がいつの間にか身体に侵入してきて

わたしの頭と身体を乗っ取ってくるからだ。

 

本来の自分って、何か行動を起こして掴むものじゃない。

余計な思考をすべて捨てたときに、

ぶわっと、頭の中以外の次元が立ち上がってくるのがそれだ。

 

日常が夢の中で、

思考が静まった時にだけ、正気にかえる。

 

自分と一致すると、無条件に満たされる。

何かを手に入れたとか、問題が解決したとか

そういった外側の事とはまったく関係がない。

 

○〇を達成したから満たされたってのとは全然違う。

ただ、「満たされた」が単体で存在する。

何なら、「わたしが満たされた」の「わたし」もない。

ただ、「満たされた」だけが存在している。

 

 

これこそがわたしの唯一求めるものだ。

外側の条件に全く影響されない無条件の充足。

 

 

無条件の充足を感じるために必要な条件は一切ない。

だって無条件だから。

 

本当なら、いますぐここで感じることができる。

できるはずなのだが、わたしの身体は余分なものをキャッチし過ぎて

好きなときに感じることができない。

なんたる矛盾。

 

 

究極的には無条件に感じることができる充足だけど、

人間の身体ってやつは、どうしてもバグを元に構成されているので

2つの調整が必要だ。

 

ひとつは、

身体に入り込んだ無駄な思念を捨てること。

 

では、どれが無駄な思念だろう。

言ってしまえば全部だ。

以前参加したノンデュアリティスピーカーのミーティングで、

 

「思考の99%は無駄である。

 

 

そして残りの1%も無駄である」

 

という名言を聞いた(誰の言葉かは忘れた)。

 

だから、とりあえず全部の思考をいったんわきに置いておく。

だって、

 

頭の中身を全部捨てましょう!

はい!捨てました!

 

なんてできないんだもの。

 

 

信念、思い込み、バイアス、あれこれあれこれ。

全部まとめていらない思考ということで、とりあえずわきに置く。

邪魔がなくなったところで2つ目。

 

長くなったので、続きは次回。

 

 

 

 

 

向上心が自己否定になっていた

30代半ば頃まで、わたしは向上心が強かった。

 

今よりもっと仕事が出来るようになりたい。

今よりもっと知識を増やしたい。

今よりもっとお金を貯めたい。

今よりもっと規則正しい生活をしたい。

 

それ自体は自然な願望だと思う。

そうなった方が生活も快適になるかもしれない。

 

実際、情報を調べて楽しくあれこれ試しているうちは良かった。

できなかったことができるようになるたび、

自尊心が満たされるような気がした。

 

 

でもこれ、調子の良いときはいいんだけど

体調が悪かったり、アクシデントがあったりしたときは

ちとマズいことになる。

 

ものすごく自分がダメになった気がするのだ。

自分で勝手に決めただけのことなのに、

守れなかったらものすごい罪悪感も襲ってくる。

それらをやらなくても誰も困らないのに。

 

自分を裏切った気がするのかな。

でも私は、「これをやりたい!」って思っただけで、

 

 

 

これをやらなかったら

わかってるんだろうな!!

 

 

 

なんて脅しに承諾したわけじゃない。

 

 

じゃあ、上手くいっているうちは

何の問題もないかといえば、そんなこともない。

 

最初は、「こういう自分になれたらいいな!」

ってポジティブだった動機が、いつの間にか

今の自分じゃダメだから、より良い自分にならなくてはいけない

と、恐れが原動力になっている。

 

本当は、「ああゆう状況や自分になれたらいいな!」という願いと、

今の自分の価値は何の関係もないのに。

 

それに、上手くできたから自尊心が満たされるってのもヤバい。

何ができても、できなくても、自分の価値はMAXだと思えるのが

自己肯定感の高い状態だ。本来の自分だ。

 

よくある引き寄せの考え方に

「今の自分でも満足だけど、ああなれたら最高!」

ってのがある。

 

ここ結構難しくて、この考え方だと

わたしはどうしても自分に嘘をついている感じで居心地が悪い。

 

 

さてどうしようと考えてたどり着いたのが、

「なりたい自分と、今の自分の価値に因果関係はない」

という、因果切りの法則(命名:自分)。

 

今より仕事ができるようになりたいけれど、まだなっていない。

まだなっていない自分には価値がない。

この紐づけを切り離す。

 

まだ理想ほど仕事ができるようにはなっていない

それと自分の価値は関係ない。

って感じ。

 

だいたいわたしが変に落ち込むときって、

余計な紐づけをしているときだ。

 

あの人が挨拶しなかった→わたしのことが嫌いなんだ

夜中にお菓子を食べた→太る

ケアレスミスをした→もうダメだ

 

こんな感じで、我ながらなかなか立派なネガティブ思考だ。

 

あの人が挨拶しなかったのは、

考え事をしていたからかもしれないし、

わたしとは関係ないことで機嫌が悪かったのかもしれない。

 

夜中にお菓子を食べたって

一回だけで太るのは逆に難しいし、

その分これから帳尻あわせればセーフかもしれない。

 

ケアレスミスをしたって

速攻会社を解雇されることはないし、

そもそも誰だってミスはする。

 

もし、わたしの友人が悩んでいたら、

こんな感じのことを言って慰めるだろう。

それが自分の事になると、途端に厳しくなる。

 

 

 

失敗=死!

 

 

このくらい極端な因果関係を結ぼうとする。

もう、

 

 

このネガティブ思考

かなり無理があるだろう

 

って書いていて思う。

 

 

ネガティブになっているときに

ポジティブな思考へ変換するのは苦手だ。

思ってもいないことを、思っていることにするのは

嫌なことをやらされたときと似た抵抗を感じる。

 

でも、今起こった事と、頭の中にしかない悪い未来は

関連性がないと思うことならできる。

 

だから、頭の中で無駄な紐づけがされていないかをよく観察して

見つけ次第たたき切るようにしている。

 

すぐにはできないこともあるけれど、

ひとつでも多く気が付けるようになるために

日常的にしっかり自分を観察し続けようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

我慢は消えてなくならない②

自分の中の苦しみをどうすることもできないと

すべての道を見失っていたある日、ふと疑問が浮かんだ。

 

「わたしの中で、わたし自身の思いはどれなんだ?」

 

他人から流し込まれたヘドロが多すぎて、

自分の考えや感情をすっかり見失っていることにやっと気が付いた。

 

この苦しみをどうにかしなきゃとさんざんもがいてきたけれど、

そもそも本当に対処しなくちゃいけない問題は起きているのか?

 

何が起こっているのか、本当のことを知りたい。

 

ひとまず得体の知れない不安は後回しにすることにした。

だって得体が知れないのだから。

 

わかる問題から解いていこう。

解けた問題が増えていけば、

今わからないこともわかるようになるかもしれない。

 

まず、ネガティブな感情がどんな時に沸くのかを観察することにした。

 

たとえば仕事の一場面。

同僚が説明すべきことを説明しなかったせいで、

プロジェクトに不具合が起きた。

それをわたしのせいにされたので怒りが沸いた。

 

 

いや、怒るだろ。そりゃ。

 

 

なぜかこの場面で、

「もっとわたしが先回りして不具合を想定し、

それに必要なトピックを質問しておけばこんなことにならなかったのに。

同僚は問題を想定したり、あらかじめ丁寧な説明をしたりなんて

できる人じゃないとわかっていたのに手を打たなかったわたしのせいだ」

なんて、本気で思って不安と罪悪感に押しつぶされそうになっていた。

 

 

いや、普通にあいつのせいだろ。

 

 

この一言に尽きるのに、よくこんなグダグダ悩めたな。

 

 

なんでこんな悩んでいたのかというと、

この怒りを解決しなきゃいけないってことに捕らわれすぎていたからだ。

 

怒りを感じてはいけないまでは思っていなかったけど、

早く解放しなくてはいけないとは思っていた。

いつまでも怒っているから不安にもなるし、苦しいままなんだと。

 

 

 

ちげーよ。

 

 

 

その不安は、どうにかしないとと焦ったからとか、

出来事と過去の辛い記憶が間違ってつながってしまったからとか、

これをきっかけにもっと悪いことが起きたらと勝手な妄想をしたからとか、

そんなこんなの雑多な理由から湧いてきているんだよ。

 

怒りとの因果関係はないのに、ムダに関連させるから

ごちゃごちゃするんだよ。

 

あれだ。

とりあえず、解決すんのは後だ。

 

なんか、ネガティブな感情が沸いたときに、

「そりゃそう思うよ。当然のことだ」

って正直に向き合ってみると、すんごくスッキリすることを発見した。

 

よく「自分を肯定することが大事」って聞くけど、

「そうだよね。そう思っちゃうよね。それでいいんだよ」

って感じだと、なぜかスッキリしなかった。

 

きっと、ジャッジされるのが嫌だったんじゃないかな。

「悪い」だけじゃなくて「良い」ってのも評価だからさ。

 

コップに水が「もう半分しかない」もいやだけど、

コップに水が「まだ半分もある」ってのも、

自分に嘘ついてる感があって好きになれない。

 

コップに水が「半分入っている」。

これがいい。

 

これからはネガティブな感情が沸いたとき、

「まあ、そりゃそう思うわな」

って、自分の本心と一緒に

出来事と感情を、その姿のまんま観察していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

我慢は消えてなくならない①

わたしは、ストレートに怒ることができない。

 

怒りが出てくると、次の瞬間には無気力感に襲われエネルギーを奪われる。

不安も沸いてくる。

今怒ったら、返り討ちにあうのではないかと、とっさに恐れてしまう。

 

子どものころ、わたしが怒ると母はわたしを殴った。

1度や2度ではない。

わたしを完璧に支配下におけるようになるまで

何度でも殴った。

 

その記憶が身体に残っているのだろう。

怒りを出すと、自分では抗えない大きな力から

ひどい目にあわされると、無意識に連想してしまうのだ。

 

当たり前のように他人をストレスの捌け口にするタイプの奴は、

わたしのような思考回路を持つ人間を見つける能力に長けている。

それはもう異常なほどの嗅覚だ。

 

いや、見つけるだけではない。育てるのだ。

はじめはほんの少しの暴言を、ジョークにくるんで投げてくる。

どこまでやれば怒るのかを推し量りながら、じわじわと暴言を増やしていく。

 

そのうち取るに足らない小さな失敗を見つけては、

「どうしてこんなことしたの? そんなの言い訳でしょ?」

などと、答えさせる気もないのに、質問攻めにしてくる。

いかにも言い分を聞いてあげますよ的な顔をして、責め立ててくる。

 

相手の言葉を真正面から受け取ってしまったら

その時点でもう負けだ。

 

じわじわと理不尽さの比率を増やした理屈は、

なぜか相手を真っ当な人間に見せる。

 

悪いのは自分なのだと、ありもしない罪を着せられ、

気が付かないうちに罪悪感で身動きが取れなくなっている。

 

これですっかりコントロール完了。

好き勝手、捌け口にできるごみ箱の完成だ。

 

親からごみ箱にされて育った子どもは、

支配者にしか見えない印でもつけられているんじゃないかと思う。

どんどんまわりに支配者が増え、

そいつらみんなからごみ箱として扱われてしまう。

 

身体の中は他人に流し込まれたヘドロでいっぱいになり、

自分が何に苦しんでいるのかわからなくなる。

 

そりゃそうだ。

自分が作り出したストレスじゃないんだもの。

わたしに理由なんかわからないよ。

 

身体にたまったヘドロを処理することができないので、

仕方なく我慢する。

どんどん新しいヘドロが投げ込まれてくるけれど、

どうしていいかわからないまま、ひたすらに我慢をし続ける。

 

どれひとつ発散できないまま我慢を重ねていくと、いずれ限界がくる。

そりゃそうだ。身体の体積は有限なのだ。

 

何があったわけでもないのに、ひとりのときはずっと泣いていたり、

なぜここで? って場面で異常にイラついたり、

寝る前になると得体の知れない不安でじっとしていられなくなったり。

 

風船をぎゅっと掴むと、そこにあった空気が移動して

どこか別のところがぷうと膨れる。

そんなようなものなんだろうな。ネガティブなエネルギーってのも。

 

じゃあ、どうするか。

ずっと考えてきた。

いろんな方法を試してきた。

そのためにお金も時間もずいぶん使った。

でも、どれもイマイチ効果が感じられず、そのたびに失望した。

 

もう無理。できない。

万策が尽きた。

 

しばらくふてくされて過ごす日が続き、

ふと、ある疑問が浮かんできた。

 

我慢は消えてなくならない②へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰にも、何にも証明しない。

3年後、わたしは50代に突入する。

それまでには、「誰にも何にも証明せずに飄々と生きている自分」になりたい。

 

 

仕事ができる自分。
知識豊富な自分。
誠実な自分。

 

そんな何者かになりたくて、ずっと頑張ってきた。
いや、今思えば、頑張っていたというよりも変な方向に力んでいただけだな。

 

 

わたしはあんなことができますよ。
こんなに多くの引き出しがありますよ。
ズルイことなどせず、誠実な人間ですよ。

 

そんな人になりたかったのではなく、
そんな人だと、誰かに証明したくてたまらなかったのだ。

 

その「誰か」には、自分も含まれている。
わたしはこんなにちゃんとやっているのだからここに存在していても大丈夫。
そういう理由付けがなければ、居ても立っても居られなかったのだ。

ちゃんとした人でなければ、役に立つ人材でなければ、またいろんな人から責められてしまう。
辛い時間ばかりが蓄積されて、そのうち潰されてしまう。
そうならないためにも、早く何者かにならなければ。

 

 

若い頃は力業でなんとかなってきた。
いや、なんとかなっているように見えていただけだ。
力で押さえつけていた歪が、40代も半ばを過ぎると、一気に崩壊してしまった。

 

もう今までのような生き方はできない。
崩壊してしまったからには、自分に正直にやっていくしかない。

 

子供や若者が、素直で正直だというのは嘘だ。
あいつらはエネルギーがあるから、本心を捻じ曲げて理想の自分という型にはめ込み続けることができる。
そのうち型通りの自分になれると信じて、本来の形を無視して力でどんどん抑え込んでいく。

 

でも、エゴの力ってのは強いけど有限だ。
本当の自分の方は、力は弱いながらも無限にパワーを発してくる。

身体が弱ったとき、思考の隙間ができた瞬間、ほんの些細な隙をついて、エゴの制限を崩壊させる。

 

ミッドライフ・クライシス。
中年の危機。
中年になると、自分の人生を問い直さずにいられなくなり、アイデンティティの不安な状態になるらしい。

 

 

何者かになりたかったわたしは、
何者にもなれなかった。


年を追うごとに、良くも悪くもあきらめがついてきた。
最終的には、「最初から変える必要なんかなかったんだな」と、心の底から腑に落ちた状態で、のほほんとやっていきたい。

 

 

そうはいっても、数十年刷り込まれた古い信念や価値観は、脳細胞のあちこちに入り組んでからまっている。今だ気づかぬ邪魔な観念もあるだろう。
そいつらをここから3年かけて一つ一つ触ってやろうと思う。

 

誰にも、何にも証明せずとも
まったく平気な、そのまんまのわたしに戻るために。